Type Something

前回、「正しい人」というシャドウの話をしました。
あの記事を書きながら、
実は私自身にも、大きな気づきがありました。
19年間、ずっと探求してきたのに。
コーチングも、心理学も、スピリチュアルも、ひと通りやってきたのに。
「なんで私は『正しい人』だったのか」
その根っこを、言葉にできたのは、つい最近のことだったんです。
「こういう時は、こう返すべき」
「こういう場面では、こう振る舞うのが正解」
そういう、いつの間にか自分の中に根付いた「べき論」のことです。
今日は、「正しい人」の鎧って、どこから来たの?
という話を、 私自身の話をしながら、していきたいと思います。
両親のいない環境で育った私には、
ずっと心の奥底に渦巻いていた感覚がありました。
「なんで私だけ?」
友達はみんな、当たり前のように家族がいる。
お母さんがお弁当を作ってくれる。
お父さんが参観日に来る。
何気ない日常の中で
その「当たり前」が目に入るたびに、
胸の奥がぎゅっと締め付けられて、
泣き喚く毎日。
寂しい、というより——
理不尽だ、と思っていました。
そして、幼い私には、その怒りをぶつける場所がなかった。
親はいない。
周りの大人に言える雰囲気でもない。
泣いても、状況は変わらない。
じゃあ、どうするか。
子どもなりに、出口を見つけたんです。
今日はその頃を振り返って、
ちょっと赤裸々に書いてみますね。
その出口が——「正しくあること」でした。
「なんで私だけ」という理不尽な痛みを、
正面から受け取ることはできなかった。
でも、「私はあなたたちとは違う」
という立場に立つことで、
その痛みを別の形に変換することができた。
何も考えずに笑っている同級生を、心の中でジャッジする。
「あの子は何もわかっていない」
「私はそんな子たちとは違う」
「正しく、きちんとしている私」
そうすることで、
「かわいそうな私」ではなく
「特別な私」でいられた。
今になって思えば、
これは子どもが必死に考えた、痛みへの対処法だったんです。
直接ぶつけられない怒りを、
「正しさ」という形に変えて、心の中でそっと使っていた。
「正しさ」は、防御でもあり、武器でもあった。
これに気づいたとき、正直ちょっと驚きました。
「正しい人」って、
真面目でしっかりしているイメージじゃないですか。
でも私の「正しさ」の出発点は、
真面目さでも誠実さでもなくて
怒りだったんです。
もう一つ、気づいたことがあります。
この「正しくあること」は、実は私のオリジナルじゃなかった。
母も、同じ鎧を着ていました。
詳しくは語れないけれど、
母もまた、自分を守るために「正しくあること」を選んでいた人でした。
母は「こうするべき」「こう言うべき」が
とても強い人でした。
会えない母を、心の中でずっと追いかけていた私は、
その母のやり方に憧れていた。
「これが正解だ」と信じて、意識的に、そして誇らしく真似ていた。
そして幼い私は、
会えない母を心の中でずっと追いかけながら、
母への恋慕から、
「このスキルこそが正解だ」と、強く信じていた。
母に近づきたくて、母のやり方を真似ていた。
愛されたくて、母に会いたくて、それで「正しさ」を手にしていた。
「正しい人」の根っこには、愛への渇望があった。
「正しさ」の鎧を外すプロセスで、一番怖かったのは
怒りと向き合うことでした。
正しさの鎧を外したら、その下にある怒りが出てきてしまう。
そんな恐れがあった。
実際、少しずつ「正しくあること」をやめていくと、最初はざわざわするんです。
「あれ、何かが出てきそうで怖い」という感覚。
でも、その怒りと静かに向き合ったとき、気づいたことがありました。
怒りの下に、悲しみがあった。
「なんで私だけ」という怒りの、そのまた下には——
「会いたかった」という、
ただただ純粋な悲しみがあったんです。
怒りは、悲しみが変形したものだった。
そしてその悲しみを
「そうだよね、寂しかったよね」とただ認めたとき
長年持ち続けていた「正しさ」への執着が、
少しずつ、ゆっくりと、ほどけていきました。
これは大きかった。
「正しい人」をやめる、というのは
頭の話じゃなくて、この悲しみに触れることだったんだと思います。
「正しい人」は、私だけの話じゃないと思っています。
形は違っても、「正しくあること」で何かを守ろうとしてきた経験は、多くの人にあるんじゃないかな、と。
あなたの「正しさ」は、どこから来ていますか?
「間違えたら怒られた」経験から?
「しっかりしていれば、認めてもらえた」経験から?
「正しくいることで、誰かの代わりに怒りを出していた」経験から?
その「正しさ」の下には、何が眠っていますか?
答えはすぐ出なくていいです。
でも、その問いを持って自分の内側を見てみることが、シャドウとの対話の始まりになります。
最後に、かつての私に言ってあげたかったことを書きます。
「なんで私だけ」という問いに、正解なんてなかった。
理不尽は理不尽のまま、どうしようもなかった。
でも、その痛みを「正しさ」に変換しなくても、あなたはちゃんと存在していてよかった。
怒っていてよかった。
悲しんでいてよかった。
弱くていてよかった。
その全部が、あなただったから。
「正しさ」の鎧を外した先にあるのは、弱くて、感情的で、不完全な自分です。
でもその自分こそが、「真我」と呼ばれるものに一番近い。
19年間かけて気づいたことの、たぶん一番深いところに、これがあります。
ここまで読んでくださったあなたは、きっと「自分の内側を見つめること」に、真剣に向き合っている方だと思います。
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それでは、今日も愛を込めて。 三石 真己
この記事を書いた人

三石 真己(Maki Mitsuishi)
自己実現コーチ/水と声と意識の専門家。
19年以上にわたり「意識と現実の関係性」「人が同じパターンを繰り返す構造」を探究。
心理学の科学的視点とスピリチュアルの知見を融合し、思考・無意識・感情・身体感覚に直接アプローチする対話×構造化コーチングを提供。
本ブログでは、自己実現が進む人と止まる人の違いを、体験と構造の両面から綴る。